組織と関係性とオレ

余程の才能がない限りは、語れば語るほど文章の魅力は低減するものだが、自己の内面に向かう手法の一つとして文章に書き起こすことはとても有用であると考える。

だが、自分の意中をそのまま文章にするだけでは、感情をお披露目するだけで終わってしまう。

拙い文章ではあるが、閲覧してくださる方にもできるだけ建設的な時間を提供するためにも、可能な限り推敲して文章を練り上げようと思う。

ただ、私は文章の素人であり、過去に一度小説を執筆しようと試みたことがあるが、自分の文章に対しての才能のなさを大いに感じた。

しかし、文章を書き続けることで少しは腕前を上げることができるのではないかと考え、魅せる文章の練習場として、執筆を行いたい。

不特定多数の方々に駄文を公開することをご容赦願いたい。

 

 

近頃多様な人たちとの出会いが急激に増え、その人たちと時間を共に過ごす過程で一方的な感情かもしれないが彼ら彼女らに好意を抱いている。

その好意は幼き頃から共に時間を過ごした友達に対して向ける好意に非常に近い感覚ではあるが、少し違う。

その違いは何なのか。

多様な彼らとの出会い方は、私が今まで多くの人と出会ってきた過程と大きく違いはなく、遜色もない。

しかし比較をすればするほど、双方の違いがはっきりと現れるようになった。

 

 

私たち日本人は社会の中で強制されたコミュニティ内で人との出会いを果たす。

ここでは小学校から始まり、大学や職場などが挙げられる。

そのコミュニティ内で出会う一人ひとりは偶然に巡り合うことになるが、自分が好き好んでその人達との出会いを果たす訳ではないので、私たちは強制的に出会わされたという表現で表すことができる。

もちろん自分の属するコミュニティ内で、他者とどのような関係を持つのか、または誰と親しくなるのか、親しくならないのかは自分次第であるが、その後の関係も強制されたコミュニティ内でのものとなる。

 

 

強制されたコミュニティ内で私たちは他者との関係性を育むことになるが、その後時間が流れるにつれて、私たちのステージは移り変わっていき、所属するコミュニティが変わっていく。

ここで確実なことは、過去のコミュニティ内で交友を育んだ人たちとの、関係性を維持させなければならない外的要因が何もなくなるということである。

過去小学校や中学校、高校時代での出会いはどういった形であっても、交友関係を結ぶために必要だったものは、両者に共通した興味のある方向性だけだったと思う。

だがいつまでも友人達と同じものに興味を持つことはできるのだろうか。答えは否。

そうなれば、私たちの関係性を繋ぐためには、自分と相手両方の好意が必要になる。

その好意とは私たちが今まで共に過ごした時間の中で生まれた思い出に他ならない。

 

しかし、思い出で繋がれた関係性は非常に脆いとも言える。

なぜならば私たちが生きているのは過去ではなく現在だからだ。

けれども私個人的には脆い関係だからこそ価値があるのだと主張したい。

私たちは今年26歳になる。浪人や留年をせずに大学を卒業していれば社会人4年目である。私自身は現在大学院生という身分であるが、いずれにしろ20代後半にもなれば私たちは無理やりにでも仮面を被り社会に適応する必要があるのだ。仲良くなりたくない相手とも仲の良いふりをしなければならない。

仮面を被った自分に慣れてしまうと素顔の自分がわからなくなる。仮面のままでは、本当の自分自身はどこからきて、どんな人間で、どこに行き着くのかということを見つめ直すことができなくなる。

そんな時に思い出で繋がれた友人と会うことによって、私たちは本当の自分を思い出すことができるのである。

私自身、悩みで身動きが取れなくなった時、何度も友人に救われた。

脆く簡単に捨てることができる関係だからこそ大切にすることで得られるリターンは大きいのではないのだろうか。

いつまでも酒を飲みながら昔話をしたり、近況報告をし合いながら互いの違いを認め、手を取り合っていきたいものだ。

 

 

しかしいつの頃からだろうか。私たちは孤独を恐れて目を背けるために人と仲良くすることを始めたのは。本心から仲良くなりたいわけではない人と交友関係を結ぼうとするようになったのは。

おそらく大学の頃からだろう。

大学では強制されたコミュニティは極めて少なくなる。どの授業を受けるかは自由であり、嫌でも人と関わらなければならないのはゼミぐらいだろうか。

その環境の中でグッと増えるのがいわゆる『よっ友達』である。

人と関わることを強制されなくなったコミュニティ内では、他者と深い関係を築くことはかなり難しくなる。

そこで私たちは興味の方向性が違う相手とも無理やり仲良くなろうとすることによって、交友関係の拡大を図ろうとするのだ。

しかし、孤独を乾かすための利害関係で本当の友達を作ることはできない。

その結果、周りの人間を取っ替え引っ替えを繰り返すことによって、よっ友達だけが量産されるのである。

 

 

社会人になれば、状況はもっと悪くなる。

先述のように私たちは社会人になれば、仮面を被らなければ生きていくことはできない。お金を稼いで生きていくためには嫌いな人とも表面上は仲良くしなければならない。

お互いにその場しのぎの関係であることを承知で人間関係を築くのである。

だが、そのような関係では相手のことを真に理解することはできない。相手の本当の感情がわからない、わかろうとしない状況でパワハラなどの問題が引き起こされるのではないのだろうか。

もっといえば日常で交わる人たちの個性は見えず、同じコミュニティであろうと、そこに相手自身が存在しない。他者感が希薄なのだ。

しかし悲しいかな、これが現在の日本で大人になるということであり、利害関係を元に空っぽの相手と人間関係を築く日常を受け入れなければ、社会に適応したとは言えない。

いわゆる孤独病が社会で蔓延しているのである。

 

 

ここからが本題だが

これに対して、冒頭の彼ら彼女らとの関係はひどく特殊なのだ。

私たち14人は強制されたコミュニティ内でのメンバーとして出会った。年齢も性別も仕事も経験してきたこともバラバラであり、興味のある方向性も全く違う。

しかし、彼ら彼女らとの関係は会社でのようなお互いの正体を隠した利害が見え隠れする関係ではなく、子供の頃の友達のような純粋な関係性を構築することができたのである。

彼ら彼女達は友達ではない。しかし友達のような好意を持つことができたのだ。

その理由のひとつとして挙げられるのは、psychological  safety(心理的安全性)ではないだろうか。心理的安全性は2015年にGoogleが『心理的安全性は成功するチームの構築に最も重要である』と発表したことで注目を浴びた。

心理的安全性とは組織や集団の中で、非難や拒絶の不安を抱えることがなく発言ができる安心安全な状態のことを言う。つまり、組織内で自分の考えや感情を誰に対しても気楽に発言できるのだ。

人間は感情の動物だが、社会的集団の中では人間個人の感情は置き去りにされることが多い。感情はロジカルではないからだ。

しかし、感情を表現することができる組織では、人はありのままの自分で存在することができる。

自分の感情を大切にする。そして、他者の感情も理解する。そうすることによって、私たちは大人になる過程で忘却の彼方に置き去りにした、真に人間らしいコミュニケーションを取り戻すことができる。

心理的安全性によって、子どもの頃のような人間関係を大人としての手段で築くことができたのだ。

これが冒頭で述べた違いである。

 

 

組織内で心理的安全性を発揮するためには、心理的安全性の知識があり、組織全体で意識して実践していくか、組織内のリーダーはもちろんのこと、無意識的に実践できるメンバーが揃うことが必要である。

今回の出会った人たちは、無意識で自分の感情も他人の感情も大切にすることができる人たちが集まった結果、心理的安全性のある組織を作ることができた。

しかし、世の中の多くの人はそもそもこういった概念が存在することすら認識していないし、エゴチズムな人の下で嫌々働いている人が多い。本来ならば、エゴチズムな人間は昭和の遺物として、即刻博物館送りになるべきだが、世の中はエゴチズムで溢れている。

 

 

今回はたまたま良い人たちに恵まれたが、この関係もずっと続くことはなく、いずれ終わりが来る。

そして、ステージが変われば取り巻くものも一変する。

次に会う人や組織はどんなのだろうか。そんなことを知る手段はない。

一期一会的な意味合いでその瞬間を捉えてもいいし、ただ自分の前に現れた人や組織を受け入れてもいい。

自分の力で自身の周りを良い方向に変えていこうとするのもいいし、惨めに嘆くのも自由だ。

今後出会いたい人を自分で選ぶことはできない。自分の力で周りを良くしていくしかないんだ。

かなしいね。